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help リーダーに追加 RSS 京都の花街 その7

<<   作成日時 : 2006/05/04 13:52   >>

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祇園、祇園東、先斗町、宮川町と島原も含めそれぞれの花街を書いてきましたが、あと一つ上七軒のことをご紹介しましょう。
場所は京都のやや西北の北野天満宮のすぐ脇にあります。
今日の奥座敷とも言われ、小さな花街で、立方、地方合わせて20数名しかおりませんが、街並みもしっとりとしており、芸にも熱心で、個人的には好きな花街で、若い頃は良く通っておりました。
ところで通称天神さんと言われる天満宮は、ご承知の通り菅原道真公がご祭神です。
菅原道真公のことは今さら記しませんが、私は個人的には日本文化を生み出すきっかけとなった最大の功労者だと思っています。
以前にも記したかもしれませんが、彼が勇気を持って遣唐使廃止を具申し、それまで中国朝鮮半島から渡ってきた文化の模倣だったものが、それを契機に、日本独自の大和文化が花開くこととなったのです。
天満宮が建立された経緯などは良くご存知のことと思いますが、京都の北野天満宮は、太宰府天満宮、防府天満宮の共に日本の三大天満宮といわれています。
一番古いのは防府だそうですが、全国にある天満宮の中でも北野天満宮は際立った存在です。
菅原道真公がことのほか梅の花を愛でたということもあり、神社には境内と梅苑に約2000本の梅があり、2月から3月にかけての梅見は見事です。
公の誕生日と命日が共に25日だったということもあって、毎月25日には境内に露店が立ち並び多くの参拝者でにぎわいます。京都では天神さんの日ということで、京の風物詩となっています。ちなみに東寺(教王護国寺)での毎月21日の市を弘法さんとよびこれも東寺の周りに多くの露店が立ち並びます。特にこちらは骨董が多く、掘り出し物を探す人でにぎわいます。

北野天満宮は10世紀に建立されましたが、室町時代の大火で社殿が消失し、その後再建されましたが、その時の残った用材を元に、七軒の茶屋が建てられたのがこの上七軒の名の由来だそうです。
現在の国宝の社殿は豊臣秀頼によって造営されたものです。

ところで上七軒が有名になったのは、1587年10月1日に豊臣秀吉によって催された北野大茶会がきっかけです。この歴史に名高い大茶会に、団子を供したところ、秀吉に大変喜ばれて、この七軒に、茶屋の専売特許を与えたそうで、このことが上七軒の繁栄を約束されることになりました。
天神さんへの参詣客を相手にした水茶屋が、遊廓へと形を変えていったのは他の花街と同じなのですが、歴史的にはここが一番古く、江戸時代も島原以外に幕府に認められていた唯一の遊廓でもありました。
話がちょっと横道にそれますが、江戸でも正式に遊廓として認められていたのは吉原だけで、それ以外はいわばモグリ営業だったのです。俗に岡場所といっておりましたが、あまりに数も多いので実際には見て見ぬふりをしていたのでしょう。
京都でも正式に認められていた公許の遊廓は島原だけだったのですが、他にも数多くあったので、幕府は上七軒を島原のまあいわば支店のような形で認め、それ以外のところもその営業所のような形を取っていたようです。
上七軒は巫女さんがアルバイトで客を取ったというような馬鹿な話も聞いたことがありますが、隣が天満宮だけにさもありなん、かとも思ってしまいますね。

上七軒は場所がら織物の産地としての西陣の発展と共に栄えました。戦後一端火が消えそうになりましたが、和装産業の隆盛と共に息を吹き返し、西陣の織家の旦那が、それこそ自転車で遊びに来ていたそうです。
ただ時代が変わり、遊廓としての歴史が終わり、歌舞会という形になってから、他の花街から離れてぽつんとある上七軒は、実に世界が狭く、朝から晩まで同じような人と顔を会わせ、狭い場所で同じようなことの繰り返しでは、若い娘はその場所から出て行きたいと思うのは当たり前で、他の花街でも舞妓が減っていましたが、上七軒では長い間舞妓ゼロという時代が続きました。
そこへ来て和装産業の衰退で、西陣も低迷し、上七軒のお茶屋も次々廃業が続き、この花街の存続さえ危ぶまれるようになりました。
それを何とかしようと尽力されたのが、上七軒では圧倒的にNO.1の歴史あるお茶屋の「中里」の先代のお上さん、中村種子さんでした。
歴史あるこの花街の火を消してはいけないと、色々改革をされ、自らもお茶屋だけでなく置屋
もされ、舞妓も久々に復活されました。
舞妓は従来は地元から出ていたのですが、今ではなり手がなく、ほとんど京都以外のところから、憧れでなりたいという若い女性を受け入れています。

上七軒はそういう風にその受け皿となるよう早くから動き、今では何とか7人ほどの舞妓がいますし、ホームページなどでもなり手を募集しています。
ただ受け入れる置屋が少ないので、今は順番待ちなのだそうです。
時代が変わったというか、北は北海道から南は鹿児島あたりまで舞妓になりたいと言って来るのだそうです。昔の苦界というイメージはもはやひとかけらもありません。

中村種子さんは花街の改革をしながらも、芸の質は落としてはいけないと、踊りは花柳流の家元が教えていますし、他のお稽古もすべて一流の芸を獲得できるように努力されました。
一時継続が危ぶまれた、春の北野踊り、秋の寿会も上七軒の灯を消してはいけないという危機感から、芸妓、舞妓共に心を合わせて頑張って継続しております。

残念ながら種子さんは数年前に亡くなられましたが、今のお上さんも、上七軒の顔として尽力されています。
上七軒の歌舞練場は小さくて、北野踊りの収容人員も少ないのですが、なにかアットホームな感じのするところです。

その他上七軒が今も頑張って継続していることに、夏のビアガーデンがあります。
これは7月、8月の2ヶ月間、歌舞練場の中庭で、テーブルを出してビアガーデンが営業され、当番で芸妓、舞妓が浴衣姿で相手をしてくれるのです。
普段舞妓などと直接、接することのない人にとって楽しい時間で、毎日盛況です。

ただこの期間は芸妓、舞妓にとっては身体的に大変な負担になるので、大変です。
祇園、先斗町でも戦後も同じようなビアガーデンの営業をしていたそうですが、結局続かず、上七軒だけが唯一継続しているのです。
少ないお茶屋と芸妓、舞妓が一緒になって上七軒のPRを兼ね努力されている結果でしょう。

ただ先ほど言いましたが、社会が極端に狭いこともあり、今、舞妓には出やすいのですが、その分辞めやすいということも有って、若い娘が定着しないのが悩みのようです。
まじめな花街ですし、芸にも熱心で、個人的には何とか次の時代を継ぐ舞妓がこの花街に残ってくれないものかと願って止みません。

以上京都の五つの花街のことを書いてきました。すべてのことを知っているわけではありませんが、5つの花街の由来や芸のことを知っている人もほとんどありませんし、まあ知っていることを人に伝えるのは悪いことでもありませんので、また何か分からないことがあればコメントでも遠慮なく下さい。

次回は花街独特の風習や、遊び方など、また雑学を書いてみましょう。

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